愛知県名古屋近郊 完熟ファーストトマト生産・販売 ご贈答から家庭用までお気軽にどうぞ!













1代目 近藤勇吉 

家で食べる分の、麦・芋を畑で作り、米を1町歩作付し、生計を立てていた。

2代目 近藤隆一 

家で食べる分の麦・芋を畑で作り、米を1町4反歩作付し、生計を立てていた。

当時は、機械などはなく、全て手作業であった。農耕牛がいる家は、まだ、良い方だったらしい。

多い時は、100俵以上収穫する時もあった。

3代目  近藤征嗣(まさつぐ)

畑・田んぼを受け継ぎ、スイカ・白菜など露地野菜を、市場向けに作るようになる。と同時に、20歳の頃には、鶏も800羽ほど飼育。

このころから、地元の雄が3人でトマトを共同経営している方から、ビニールハウスでトマトを作らないかと、話があった。

それをきっかけに、トマトの栽培にも、動き出す。品種は、丸玉トマトの東光系を栽培。(先駆者がこのトマトを作っていたから)そのころは、加温をせず、通路に水を張り巡らすことで、保温する"通称 ベトコン"という、栽培方法であった。

そして、経営をトマトに切り替え始める。

25歳で、1反で3連棟の鉄骨の、当時では大きなドーム型の温室を建てて、温風ボイラーも導入する。が、数年後、台風で温室が飛ぶこととなる。

別地で、1反の鉄骨ドーム型のビニールハウスを、自作する。総面積が2000uとなる。

当時は段ボール箱が無いので、箱用の木を買い、釘を打ち組み立て、出荷していた。きっちりくぎ打ちしていないと、積み上げたときに、荷崩れの原因となるなど、時間も掛かるし、問題もあった。

このころは、ファーストトマトは、渥美が一大産地で、ファーストトマトと言えば、愛知と言われていた。そして、ファーストトマトは、市場に出ても、高値で取引されていた。
ファーストトマトへの転換を検討していたが、栽培が難しい品種のため、お前らには無理だと言われていた。

が、ファーストトマトの栽培に乗り出す。

品種は、純系ファーストで、耐病性が全くないため、病気になり枯れやすかった。

共同出荷では、作り手の技術や管理、土質などの条件により、生産物の質が違うため、品質を揃え出荷することを目指し、温室組合団地の設立の話があがる。

若手の農家5軒が集まり、組合を作る計画となる。昭和50年から用地交渉から始まり、昭和52年に着工・完成。

このとき、農事組合法人 「丸東温室組合」 設立である。総工費2億5千万。一人あたりの割り当て面積は、およそ3000u。


丸東温室組合になってから、耐病性のある、三宝ファーストや、ファーストパワーを作付し始める。

その後、スーパーファーストが品種育成されて、味がよく耐病性があるため、作付する。

さらに品種育育成されたレディーファーストを、作り始める。それは、完熟型であったため。

このころは、市場が若い者が頑張っているから、何とか食っていける様にと、力を入れてくれていた。だから、何とかやってこれた。市場に心意気を感じられた時期である。

集団出荷しているときは、品質はもちろんだが、決められた範囲内に、どれだけ秀品率を上げ、栽培していくかを考えてやってきた。

必死でトマトのことを考えて、頑張ってきたが、17年ほどで、バブルが弾け、それまで集団でやってきた組合も、それぞれの道を歩き始める。
ある者は、ミニトマトのロックウール栽培を始め、ある者は、洋ランの栽培を始める。

我が農園のように、今まで通り、トマトを土耕で作る者も、当然いた。

ただ、作目を変えただけでなく、組合団地丸ごと、多品目に渡る直売団地と、変貌を遂げた瞬間でもあった。

我が農園も、この頃から本格的に直売の販売を始めるようになる

直売でやっていくために、今までより、さらに品質にこだわり、トマトの栽培を始める。品種も今まで、やってきた経験を生かし完熟型のレディーファースト種と、味の良いファーストパワー種を時期にあわせ、併用する。

栽培形態も、一気にすべての面積を植え付けするやり方から、長い間お客様にトマトを提供するべく、温室を区分けして、生育の段階に分けて、栽培をする形態とした。

新鮮で安全、そして美味しいトマトを作るため土作りに気を遣い、病気になりにくい健全なトマトの木を作り、なるべく農薬の使用を軽減させ、栽培に取り組んできた。

本格的に直売を始め、数年後、その努力をそばで見て、そのトマトの味に惚れ、受け継いでいくため、長男が就農する。

4代目 近藤 一也の誕生である。

着実にお客様の信用を得て、口コミで顧客を増やし、今に至ります。




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